宗教について 〜 人の生と死を考える 注64'

公開: 2023年9月26日

更新: 2023年9月26日

注64'. かたき討ち

封建制度が採用されていた中世の日本社会では。親や主君が、彼らと対立関係にあった人や、その関係者によって殺された場合、その子供や家来たちは、親や主君の恨(うら)みを晴らすために、その対立関係にあった個人や組織を相手として、戦いを挑むことがありました。これを「仇討ち」とか「かたき討ち」と呼びます。

江戸時代の中ごろ、元禄時代に、赤穂藩の浪人たち約50人が、江戸城の中で、小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)に切りかかり、切腹を命じられた主君、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の恨みを晴らすために、年の瀬の夜、吉良邸に押し入り、吉良上野介の首を切り、浅野内匠頭が葬られていた、芝の泉岳寺の墓前に捧げた、忠臣蔵は、江戸時代の最も有名な「かたき討ち」の一つでした。

「仇討ち」や「かたき討ち」は、その行為がさらに、次の「仇討ち」や「かたき討ち」の元となるため、殺し合いの連鎖が続きます。このことから、徳川幕府は、「仇討ち」「かたき討ち」を禁じました。赤穂の浪士たちも、その罪を問われ、全員が「切腹」を命じられました。そのことから、忠臣蔵は、歌舞伎の演目として後世まで、人気を博している題目になりました。

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